歴史的発見!?三木合戦後の丹生山明要寺の遺産が新たに見つかった話
地元から、すごい発見があるかもです!
歴史的発見!?三木合戦後の丹生山明要寺の遺産が新たに見つかった話
地元のとある方の持っている土地の倉庫?らしい建物から、古い歴史あるものが発見され、それが神戸市の役所の人と神戸大学大学院のスタッフが研究のために持ち出す事になったのです。その持ち出しに立ち合いの際に、写真をとったわけです。それをご紹介します。
1.三木合戦
この地域には戦国時代、三木合戦と言う戦がありました。三木合戦とは、羽柴秀吉(当時は織田信長の家来)が兵庫県南部(当時は播磨国)に攻めてきた時の合戦です。
三木合戦(みきかっせん)は、天正6年3月29日(1578年5月5日)から天正8年1月17日(1580年2月2日)にかけて行われた織田氏と別所氏の合戦。織田家の武将羽柴秀吉が行った播州征伐のうちの1つで、別所氏は播磨三木城(兵庫県三木市)に篭城した。この合戦で秀吉が行った兵糧攻めは、三木の干殺し(みきのひごろし、-ほしごろし)と呼ばれる。引用元:Wikipedia
三木城(別所家)は秀吉の兵糧攻めに、天正6年3月29日~天正8年1月17日まで約1年と10ヶ月、耐えました。兵は7500人くらいいたようで、その間、毛利家から兵糧を、秀吉にばれないように三木城に運び込んでいたのです。その主な経路のひとつに、摂津港~花隈城~丹生山明要寺~三木城 という経路があったのです。
上記の地図の左から、三木城、丹生山明要寺、花隈城です。
2.丹生山明要寺焼失
当然、秀吉は補給路を断つために、丹生山明要寺、花隈城を落とします。(厳密には他にも中継地点があったようです)
丹生山明要寺は落とされ、明要寺は秀吉に焼かれ消失します。
その際に、「○○坊」と言った明要寺に付属する小さい寺が点在していて、それらも焼かれたようなのです。
その「○○坊」が、わずかに残っていたのか、復興したか、分かりませんが、後の話に「○○坊」が出てきます。
現在の丹生山は、丹生神社があり、「○○坊」らしいものはありません。
三木合戦詳細は↓
3.大般若経を納めるための寄付
時は流れ、江戸末期。安政の大獄の時代。その「○○坊」が、何かしらお金を集めるために、広く寄付を募ったのです。その寄付の名目が、「大般若経」というお経を約600巻作るためという事だったようです(これは、そうであろうという事です)。
寄付を募った真の目的は不明です。その「大般若経」を作るために寄付した檀家の家の名前が記録されている冊子や巻物が、今回、新たに見つかったのです!それが以下の写真。
広くは姫路の人まで寄付していたようです。
そして、このような冊子を大量に作るために使われた木版が、これ↓
4.今後の研究
そして、神戸大学等で、今後、詳細が研究されるとのことです。何か歴史的な大発見があれば、面白いのですが!!!どうでしょうか?(期待しすぎ?)